私は二泊二日のみの参加になりました。
でもそこで見たことをお伝えできればと思います。
いろいろあって5/3夜11:45にようやく昌寧に到達した私は、早速運転をしてく
ださる方と柴田さんとに迎えに来ていただき、ラムサール条約加盟を来年に控
えた湿地にある、自然保護団体の教育施設に向かいました。廃校になった小学
校を利用した施設で、朧月夜と柳の木の校庭に着いた車から降りるとすぐに、
乾いた香ばしい松のいい匂いを感じました。
ともかく、とても素晴らしい出会いがあったこと、前日のチョウさんの初めて
の里帰りのとき、密陽ミリャンの戸籍係の方に姜さんが連絡してくださって
て、おじいさんの生まれた家や家族を知っている方達皆がチョウさん一行を迎
えてくれた、と、1時2時でも興奮して眠れない、皆さんの様子から、雰囲気が
伝わってきました。
翌日5/4、町の中心の公園で昌寧の出発式があり、姜さんがSWKの趣旨を説明
し、廣瀬さんが謝罪と友好・平和のメッセージを伝え、私達皆でディオラを歌
いました。そして、3.1民族文化向上会の方や、自然保護団体の方や、色々
いらっしゃいました。皆さんを歓迎する、と。一度ではなく毎年来てください
と言っていただきました。(ちなみにこの日こうやって声名を発表する機会が
実に三回ありました。)
そして、おそろいの黄色のゼッケン?をつけ、この日22名居た日本人と、姜さ
ん、レベッカさん、リュウさんらの韓国勢と、チャンニョンの小さな町の商店
街を抜け、丘を越え歩いていきました。
ストーンウォーク初参加の感想は、意外に歩みが早くて、着いていくのが大変
なときもある、ということです。
また、ハプチョンでは、歓迎式をしてくれる、その時間が決まっているため、
途中で私達は、車で移動し、お昼を自然団体の理事もしている教会の長老の方
にご馳走になってしまいました。
また、ウッポの湿地を見学させてもらいました。
年間22万人訪れる湿地で、韓国で見ることのできる動植物の1割が見られる場所
だそうです。戦中日本が来て湿地の半分を農地に変えたとのこと。
そして今、自然団体が目指しているのは、農地になった半分を湿地に戻して環
境を守ろうということ。
自然団体の方が言っていて印象深かったのは次の一言です。外来種について質
問した際、『外来種が入った状態の湿地だけれど、特に外来種を取り出して排
除したりはしない。外国に行って住んだ人と一緒で、人は外国でその土地に根
付いて変わって行くけど、だからってその人を排除したりしないでしょう?差
別になります。』
15:30?ごろ、ハプチョンの手前から再びウォークが始まり、たくさんの人が
迎えてくれました。歓迎式典には多くの小学生・高校生・そして韓国のヒロシ
マと呼ばれるハプチョンの被爆者福祉会館の方もいらっしゃり、総勢40名くら
いで歓迎、フリースクールの小学生は歌を歌ってくれました。ドキュメンタリ
ー作家の方やKBSのテレビ局も来てくれ、その晩のニュースで流れたそうです。
中には、ハプチョンにお嫁に来て9年目、という日本人女性の方も居て、市のホ
ームページでこのことを知ってかけつけてくれたそうです。
これら皆で一緒ににぎやかに石を引き、途中で道行く高校生が参加してくれた
りして、一緒に橋を越え、街中を通って被爆者福祉会館へ向かいました。
これからの2日、石をここに置くためです。
今日参加してくれた日本人女性の方は、ハプチョンには被爆者が多いと言って
いたけど、なかなか接する機会がなく、今日それができてよかった、と言って
いました。
被爆者福祉会館についたとき、原爆の風景の写真がハングルで説明されたパネ
ルが20枚ほど展示されていて、ここが被爆者の方の居る場と改めて思い、また
ハングルで書かれていることにも、わざわざ日本にきていなければ、この方達
は被爆することもなかったのかな…と、思いました。
廣瀬さんが居て、写真をもとに説明してくださいました。
背中に大火傷を負っているこの少年は、今もまだ生きていて被爆者団体の代表
をしているんだよ、とか。
廣瀬さんは、そのままパネルのつづく会館の、中から出てきた被爆者の方に
「やあ、こんにちは。」と、日本語で話しかけていって私はびっくりしまし
た。『被爆者のひとは、日本語が喋れる人が多いから、どんどん話しかけてい
ったらいいよ』、と教えていただきました。廣瀬さんが2月の事前説明の際に、
お会いした方もそこにいらっしゃったそうです。
「広島に居たころ私は17。でも、生まれは京都よ。」とてもステキなきりっと
し
た女性もいらっしゃいました。
お名前を聞くと、「日本名?」ときかれたので、いや、「本名を」と。
「本名は○○、でも日本名は□□。戸籍が二回書き直されたので、戸籍が汚くな
っちゃった。本名に二重線で日本名、その後二重線でまた本名ってね。」
翌日5/5は、被爆者の方が楽しみにしているピクニックがある日で、そこで再度
皆さんとお会いできるとのこと。
私達は車に分乗して、本日の宿へ向かう。それがなんと、世界遺産の海印寺
(ヘインサ)にある宿坊と聞いてびっくりする。
その夜次に向かうコッチャンからのNGOのメンバー3名も交えて、ミーティング
があり、姜さんからこれまでの日程を振り返って説明していただいた。
「皆さんは、それぞれの街の市民団体を知りましたね。
釜山はNGOが強い土地。
金海はYMCAが強い。(SWKでYMCAに宿泊した)
密陽はNGOはそう強くはないので、市が協力してくれました。(SWKを市が案内
してくれた)
昌寧は自然保護団体が強い(ウッポの自然。)
陝川は被爆者が韓国一多い、ただし市民団体はそう強くはありません。海印寺
も有名です。
そして次に行くコッチャンは、朝鮮戦争の戦地であり、市民運動も強いです。
」
そうやって、各都市の特徴と市民団体とをつなぎ、参加者に体験させてくれ
る、ストーンウォークを企画・調整する姜さんの才覚と情熱はすごい、と思い
ました。
翌日5/5の朝、私達には海印寺にある、800年前に刷られた木版のお経『八万大
蔵経』と寺院の見学ができました。日本のお寺にも通じる山門と参道だけど、
やはりソウルの王宮のような伽藍の碧の壮麗な外見が、韓国のお寺だなぁ、と
いう感じです。建物の外側にも仏像などが描かれているのが、韓国と他国の仏
教寺院を分ける点だそうです。
案内してくれたお坊さんが最後に言ったのは、お経が置かれた堂の上に今石塔
があるけれど、それは日帝時代に日本側が気の流れる重要な場所においてあっ
た大事な岩を切ってしまったので、戦争後に偉いお坊さんが石塔を置いたのだ
という話でした。
あらゆるところに日本が影響していることに驚きました。